• 我々がたびたび履行せねばならぬ務めは平凡な問題で、脳漿を絞らなくとも、常識で判断できるものである。しかしてまたこれが最も困難なる所である。否、判断のみではない。判断したことの実行こそ実に容易ならぬ難事である。この日々の平凡な務めを、満足に行い続けさえすれば、一生に一度あるか、なしかの大問題が起こるとも、これを解決するは容易である。(「総説」より)
  • 自ら省みていさぎよしとし、いかに貧乏しても、心のうちには満足し、いかに誹謗を受けても、自ら楽しみ、いかに逆境に陥っても、そのうちに幸福を感じ、感謝の念をもって世を渡ろうとする。それが、僕のここに説かんとする修養法の目的である。(「総説」より)
  • 凡人と聖人とはその立てる志の内容においてこそ、高低多少の相違あれ、志を立てるというだけに至っては、二者あえて異なることはあるまい。ただ、立てた志をいよいよ遂行する時に、凡と非凡の差が明らかに現われてくる。凡夫は志は立っても、なお絶えずぐらついて動く。非凡の人は何事に会しても動かぬ。(「青年の立志」より)
  • 何事でも継続することについてはすこぶる困難がある。継続心を害するものは、内部の心から発することもあり、また外部より来ることもある。しかして、ともにこれに打ち勝つことは容易でない、途中の掛けやすい。しかし、人が大事を成すと否とは、一に懸かってこの継続にあるのだから、いかなる困難を排しても、継続心を修養しなければならぬ。(「決心の継続」より)
  • 克己心を修養するには、最初より大事を目的とし、むずかしきことを選ぶはよくないと思う。かくては、成功しないでかえって失敗の因となることがああるゆえに、毎日出逢うことで、少しの心がけにてできるくらいのことより始めるがよい。(「克己の工夫」より)
  • 後日の不足を補うために、予め貯蓄することは、よほど頭脳の進歩した者でなければできぬ。スペンサーが言うたごとく、知能の発展は時間と空間に適応するものである。知能の程度が低ければ低きほど、時間に関する思想が短く、また場所に関する思想が狭い。その適例は子供である。(「貯蓄」より)
  • 苦しみに堪えれば、必ずその報いは来る。悲しむ者は幸いなりという教訓さえある。苦しみはいつまでも続くものではない。ゆえに、逆境にある人は常に「もう少しだ、もう少しだ」と思うて進むがよい。いずれの日か、必ず前途に光明を望む。(「逆境にある時の心得」より)
  • 何かあることをする前に、果たしてこれは何のためにするのか、名利のためではないかと思うて正す。名利の念は人情に離れ難い人間の本能のごときものである。自分は最初よりそれを目的とするのでなくとも、知らず識らずの間に、おのずからこれに駆られやすい。それゆえに何事をするにしても、待てよ、これは何のためにするのかと、一歩退いて沈思黙考する。(「黙思」より)