運命・自由・愛

  • 人間はどんなに苛酷な運命に遭遇しても、心理的に挫折し、自己を破滅させることなく、自らの意志でその運命を克服して自らの未来を切り拓く主体的な自由をもっている。さらにその力強い主体的自由の内実は愛であり、自らの実存の最も根底にある愛の自覚こそ、人間に真の「生きる意味」を与えるものである、と。私は人間の生き方に関するこのようなフランクルの深い洞察に大いに共感し、学生諸君がこれから人生を生きていく上で、ぜひとも参考にしてほしいと考えて、哲学の講義に取り入れてきたのです。
  • 「意志は、生命をもつ存在者が理性を具えている限り、かかる存在者に属する一種の原因性である。また自由は、この種の原因性――すなわちこれらの存在者を外的に規定するような原因にかかわりなく作用しうるという特性である」という(カントの「自由」の概念についての)定義です。
  • 「この個人の自由の極めて制限された社会環境にもかかわらず、なおそこにおいてすら、彼の実存を何らかの形で形成する最後の自由が存していたからである。人間がかかる状態においてもなお『異なってありうる』こと、すなわち、強制収容所における心理的な病態化ということの一見抵抗しがたい法則性に従わないでいたいということ、 の実例は…多く英雄的な実例であるが…極めて多く存するのである」(フランクル『死と愛』)
  • 私たち一人一人を、社会という大きな機械のちっぽけな一部品のように、代理可能な存在と捉えるのが現代の常識ですが、この人間性喪失の常識こそ現代の最大の問題なのです。もう一度、念を押しておきましょう。私たち一人一人は、他の誰とも取って替わることのできない、自分だけの代理不可能な存在として、他の誰とも替わってもらえない、自分だけの代理不可能な人生を生きているのです。それが「実存」なのです。
  • 「人間は自由である。人間は自由そのものである。もし一方において神が存在しないとすれば、われわれは自分の行いを正当化する価値や命令を眼前に見出すことはできない。こうしてわれわれは、われわれの背後にも、前方にも明白な価値の領域に、正当化のための理由も逃げ口上ももってはいないのである。われわれは逃げ口上もなく孤独である。そのことを私は、人間は自由の刑に処せられていると表現したい」(サルトル『実存主義とは何か――実存主義はヒューマニズムである――』)
  • 人間が何かに賭けるということは、人間の生きざまに関わる重大事なのです。このような重大事に直面して、例えば周囲の人たちの顔色をうかがいながら、あれこれと狐疑逡巡してして、あげくの果てに決意をひるがえすならば、それは保身的な態度以外の何ものでもなく、それだけですでに人生に敗北したと言わざるをえないでしょう。
  • 「自分なりの態度」の実例を、次のように述べています。「収容所に入れられた当初に一切が彼から奪われようとも、何人も運命に対してあれこれの態度をとる彼の自由を最後の息を引き取るまで奪うことはできないのである。そしてこの『あれこれの』ということは実際に存したのである。強制収容所においてはその無感動を克服し、その刺戟性を抑圧することのできた少数の人々がいたのである。彼らは自分自身に関しては何ら求むるところなく全く自己犠牲的に、点呼場を横切り収容所のバラックを通りながら、あちらでは優しい言葉を、こちらでは最後の一片のパンを与えていた人々なのである」(フランクル『精神医学的人間像』)
  • 「生活の形成がいわば外延的な大きさであるならば、生活の充足はいわばヴェクター的な大きさである。即ちそれは個々の人間の人格の前におかれ、与えられ、課せられた価値可能性に向けられているのであり、この可能性の実現化が人生においては重要なのである」(フランクル『死と愛』)
  • 「愛は結局人間の実存が高く翔り得る最後のものであり、最高のものである…」(フランクル『夜と霧』)
  • 恋愛や夫婦の愛においても、愛の第一義は「愛すること」にあることが分かりますが、愛の範囲を広げて、親子の愛。兄弟姉妹の愛、友人や同僚どうしの愛、職場や社会への愛、仕事への愛、学問や芸術への愛等々、すべての愛において、愛の第一義が「愛すること」にあることは、上来の諸考察からして、当然の帰結でしょう。
  • 「各細胞はその社会のメンバーとして、初期のキリスト教徒も及ばぬほど献身的に、謙虚に、自己を捨て、唯一の目的、すなわち、自分が所属する生きもの全体の生存に尽くす」(L.L.Larison Cudmore『生きているとはどういうことか――細胞の科学――)
  • 愛を究極の本性とする実存が、この社長夫人のように、その大切な他者への愛を見失い、自分だけをいたわる自己愛に溺れたとき、そこの実存的真空や実存的欲求不満が生じ、それを紛らわせるためには、過剰な飲酒にでも走らざるをえないのは、当然のことでしょう。