• 「習慣的にすべての人を愛するように努力しなければならない。あらゆる代価を払って、自分のためにも習慣的にすべての人を愛するように努めなければならない。人々が愛に値するかどうかを問うことなしにそうしなければならない。というのは、ある人が愛するに値するかどうかを正しく判断することは非常に困難だからである。
  • ヒルティによれば、このように他人の考えを読み取ることは、利己心に自分がとらわれていないならば、だれにでもできるということになります。自分の利己心が少ないと、お見通しになるのだと教えています。
  • 「悪は特別厳しく非難する必要はない。多くの場合、それは明るみに持ち出されれば十分である。そうすればその人の表面はとにかく、たとえ反対しようとも、必ず自分の良心の裁きを受けるからである。」
  • 付き合う人が立派な人の場合は、相手にちょっとした失礼があっても、それは全然気にしないように振る舞ったほうがいい。と言うのは、質のいい人たちは必ず、内心「しまった」と思っているもので、それを負い目に感ずるものだから、とも言っていますが、これはある程度の水準以上の人には十分通用すると思います。ですから、何か失礼なことがあっても、カッとしないで気づかないふりをする。向こうの人が相当立派な人であれば、「ああ、失礼なことをしてしまった」と気づくので、これで十分なのだという教えです。
  • 「すべての人間に対して、一様に親切であるということはできないことだと思うかもしれない。けれども、常に、この世の弱者、貧しい者、単純な人、教養のない人、子供、あるいは動物、植物のために配慮して、決して優れた人を優先するようなことをしてはいけない。それぐらいのことはやれるのではないか。そして、このような高ぶらない態度で感謝を期待うることもなく、親切にしてあげれば、そういう人たちは自分に好意を持つだろうし、その弱き者たちの好意を自分と対等の人間のものとして尊重してあげるならば、そうするあなたも愉快だろう。」
  • 「持続する平静な倫理的な力を与えないものは本物ではない。」持続できること、心静かにやって、やましくないような仕事、これが本物なのだということです。これは仕事というものに没入している人の一番の姿ではないかと思います。仕事とは本質的に持続ですから、仕事をよくしている人は、その時、心は一番落ち着いています。そして、仕事ですから、もちろんやましくない。これが一般習慣論の総結論です。ヒルティの「習慣論」は、ある意味では「仕事論」です。そして、その仕事論は単に稼げ稼げではなく、正当な休暇をも含むものなのです。
  • 今日の人々が慌ただしく、神経質でぴりぴりして過労になっているけれども、昔の人よりたくさんの仕事、数多くのものをつくっているからということはない。おそらくは、あまり多くの休息をとらなくても、しかもいらいら慌てたり騒がしい生活をしなくても、十分立派な仕事をなすことは可能であるはずである。」
  • こういう生活をする第一の条件はどういうことなのかと言うと、「一般の潮流から自分の意志もなく押し流されることはなく、むしろこれに抵抗して、あくまで自由な人間として生活をしようという決心である。そして、仕事でも楽しみでも、決してその奴隷にならないということである」とヒルティは言います。
  • 「今日の人々が慌ただしく、神経質でぴりぴりして過労になっているけれども、昔の人よりもたくさんの仕事、数多くのものをつくっているからということはない。おそらくは、あまり多くの休養をとらなくても、しかしいらいらして慌てたり騒がしい生活をしなくても、十分立派な仕事をなすことは可能であるはずである。」
  • 「正しい仕事の仕方をすることこそ、人間を向上させ、健康を維持させ、そして、充実した生活のもとになるのだ。」
  • 「仕事の際に、その成果、できあがったものだけを重んじて仕事そのものを愛さない場合は、特に仕事のしすぎになりやすいものだ。」
  • 「われわれの心の中にはいつでもある種の怠惰が潜んでいる。心の中に潜んでいる怠惰に、何をやりたいか、何をやりたくないかをいつも聞いているようであれば、それはいつも真面目な仕事をすることに同意しないであろう。実行なしの良い心がけぐらいで終わってしまうであろう。」
  • 「小さな時間を利用する。断片的な時間を利用する」
  • 「真理はいかなる学科においても、概して簡単明瞭なものであって、しばしばまるで学問的に見えない。これを体裁よくアカデミックな形にすることは、要するにかっこうをつけることなのである。だから、学者の仲間に入るには、だいたいだれもこれまで知られていない世紀の底荷のバラストを集めて、自分にも無益な仕事をやって、まず、学者の株を買うのだ。」