愛するということ 新訳版
エーリッヒ・フロム
紀伊國屋書店
1991-03-25

  • 「親愛の情とは、二人の人間が参加し、人間的価値のあらゆる構成要素を認めることができるような状態のことである。人間的価値を認めるには、私が協力体制と呼ぶある種の関係が必要である。私のいう協力体制とは、しだいに同じものになってゆく、つまりしだいに共通のものとなってゆく満足を追求するために、また、しだいに相手のと似てくる安全策を保持するために、相手が表明する欲求にたいして、自分の行動を明確な形で適応させることである」。いささか難解な言いまわしだが、サリヴァンの言いたいのは要するに、愛の本質は協力体制という状態のなかに見られるということである。協力体制においては、二人は「私たちは、自分たちの威信と優越感と長所を守るための規則にのっとってゲームをしているのだ」と感じる。・・・サリヴァンによる愛の説明は、20世紀の、疎外されて商品化された人間の経験を語っているのである。彼が語っているのは「二倍になった利己主義」、すなわち、それぞれの利益を出しあって、敵意にみちて疎外された世界にたいして結束している二人のことである。実のところ、親愛の情についてサリヴァンが下している定義は、成員がたがいに協力しあっているチームなら、だいたいどのようなチームにもあてはまる。なぜなら、そうしたチームにおいては、成員一人ひとりが「共通の目的を追求するために、自分の行動を、相手に表明する欲求に合わせる」ものだからである(ここでサリヴァンが、相手が表明する欲求と言っているのは注目に値する。なぜなら愛について最低限言えることは、愛があれば当然相手が表明しない欲求にも応じるということだからである)。
     たがいの性的満足としての愛、あるいは孤独からの避難所としての愛は、どちらも、現代西洋社会における崩壊した愛、すなわち現代社会の特徴である病んだ愛の「正常な」姿なのである。病んだ愛がどんな形をとるかは人によってさまざまたが、結局は意識のうえに苦しみをもたらす。そしてその苦しみは、精神科医の眼から見ると、いや素人の眼から見ても、神経症的である。
  • さまざまな投射があるが、自分の問題を子どもに投射するというのもある。まず第一に、この投射が、子どもにかける期待となってあらわれることがよくある。そうした場合、子どもにかける期待は、まず、自分の人生の問題を子どもの人生に投射することによって決まってくる。自分の人生に意味を見出だせない人は、そのかわりに子どもの人生に意味を見出そうとする。しかし、それでは自分の人生にも失敗するし、それだけでなく、子どもにも誤った人生を送らせることになる。なぜ自分の人生に失敗するかといえば、それは、いかに生きるかという問題は、本人によってしか解決できず、身がわりを使うわけにはゆかないからだ。どうして子どもにも誤った人生を送らせることになるかといえば、そういう人は、子どもが自分で答えを見出そうとしたときに導いてやれるだけの資質に欠けるからだ。
  • ここで、しばしば見受けるもう一つの誤りについて述べておく必要があろう。すなわち、愛があれば絶対に対立は起こらないという幻想である。人はふつう、どんなことがあっても苦しみや悲しみは避けるべきだと信じているが、ちょうどそれと同じように、愛があれば対立は起きないと信じている。どうしてそう思うのかといえば、身のまわりで見かける対立がすべて、どちらの側にも良い結果をもたらさない破滅的な交わりにしか見えないからだ。なぜ双方に好ましくない結果しかもたらさないかといえば、ほとんどの人の「対立」が、じつは、真の対立を避けようとする企てにすぎないからである。もともと解決などありえないような些細な表面的なことがらで、仲たがいしているにすぎないのだ。二人の人間のあいだに起きる真の対立、すなわち、何かを隠蔽したり投射したりするものではなく、内的現実の奥底で体験されるような対立は、けっして破壊的ではない。そういう対立はかならずや解決し、カタルシスをもたらし、それによって二人はより豊かな知識と能力を得る。
  • 二人の人間が自分たちの存在の中心と中心で意志を通じあうとき、すなわちそれぞれが自分の存在の中心において自分自身を経験するとき、はじめて愛が生まれる。この「中心における経験」のなかにしか、人間の現実はない。人間の生はそこにしかなく、したがって愛の基盤もそこにしかない。そうした経験にもとづく愛は、たえまない挑戦である。それは安らぎの場ではなく、活動であり、成長であり、共同作業である。調和があるのか対立があるのか、喜びがあるのか悲しみがあるのかなどといったことは、根本的な事実に比べたら取るに足らない問題だ。根本的な事実とはすなわち、二人の人間がそれぞれの存在の本質において自分自身を経験し、自分自身から逃避するのではなく、自分自身と一体化することによって、相手と一体化するということである。愛があることを証明するものはただ一つ、すなわち二人の結びつきの深さ、それぞれの生命力と強さである。これが実ったところにのみ、愛が認められる。